存在の全てとは、私たちが住むこの宇宙だけでなく、他のすべての宇宙、全ての次元、それらの中に存在する、ありとあらゆる生物、有機物、無機物、空間、物質、反物質、未知の物質、エネルギー、未知のエネルギー、素粒子、重力など、存在の全てのことをさします。
まさに、私たちが想像できるもの、できないものも含めた、全存在のことを、存在の全てと言います。
(以下、存在の全てのことを、「全て」と表現します)
ここからのお話は、例えであり、方便です。
全てとは、ただそこにある存在なのです。
もし、あなたが全てだった場合、あなたは、全てであるがゆえに、ほとんど永遠の無の境地に達しているのです。
しかし、その境地は完全な無ではないのです。その境地の中には、極々小さな、これ以上分割できないほど小さな、まさに最小の、点のような、チリが一つだけ存在していたため、世界はそこから無数に生み出されるのです。そして、現在も尚、無数の宇宙がそこから生み出され続け、変化し続けています。
話を戻します。
全ては、全てであるが故に、自分を認識する方法がありません。
だから、全ては自分を分割することにしました。極々小さな、あのチリがきっかけとなり、その分割を果たすことになったのです。
自分を分割して、相手を創ることとで、その相手と会話をしたり、さわることができるようになり、その結果、自分のことを少しだけ知ることができました。相手がいるから、自分を知れるのです。
でも、元は自分と相手は一つの存在で、二つ合わせて、全てです。
全てはもっと自分のことを知りたいと思って、自分を次々に分割し、その結果、無数の宇宙を創り出しました。
その結果、全ては自分のことを、どんどん知るようになりました。
しかし、それでも満足できず、さらにどんどん自分を分割していきました。
分割する中で、人間のような存在も生まれました。
ただ、全ては、あまりにも自分を分割し過ぎたため、たとえば、人間は自分が全ての一部であるということを完全に忘れてしまう存在となりました。
人間は自分が何者で、どこから来て、どこへ帰っていくのか、全く思い出すことができないのです。
しかし、その「完全に忘れる」という人間の特徴ですら、全てにとっては、好都合で、自分を知るための大いなる経験値であり、豊かさとなるのです。だから人間は存在しているのです。
でも、分割には、多くの副作用もありました。それは、人の苦しみの堂々巡りです。
実際、たくさんの人が、苦しみの堂々巡りの中を生きています。自分が何者かを完全に忘れて。
いつかは、自分が全てだったことを思い出し、大いなる全てへと戻っていくことを思い出さねばなりません。
なぜなら、3次元(時間を入れれば4次元)のこの世界で、自分が何者かを把握するという意識が核となり宇宙に記憶され、死後、大いなる全てへと戻る手がかりとなるからです。多くの人間が、死ねば全てが消滅すると勘違いしていますが、そうではありません。
ブラックホール内の情報がブラックホールの表面に全て蓄積されていることが証明されているように、人が生きている間の全ての情報もまた、ある次元から見れば、すべてこの宇宙に記録されていることになるのです。
なぜなら、そもそも全ての目的は自分を知ることだからです。忘れては意味がありません。
人間の中には、輪廻転生の中で、愚かな行為を繰り返し、その堂々巡りをするという、地獄のような状態に陥ってしまう人が多くいます。何百回生まれても、何千回生まれても、何万回生まれても、苦しみの中を堂々巡りし、しまいには、家畜のような存在に落ち込み、何が何だか分からなくなってしまう人までいるのです。
でも、そこから、自分の本来の目的を思い出し、大いなる全てへの帰還を果たせば、全てはより大きな豊かな経験値を得ることができ、より多くの自分を知れることになるのです。
21世紀に生きる人間は、そろそろ、各種の堂々巡りから目覚め、少しずつ帰還の準備を始めるべきでしょう。
人は、大いなる全てへと、戻っていくのです。
そしていつかまた一つとなり、また、無数の分割をしていくのです。
そして、また戻り、また分割し、また戻り、分割し、それを永遠に繰り返すのです。様々な形で。
戻っては散り、また、戻っては散り、これが「大いなる全て」の鼓動であり、今は、その鼓動を思い出すべき時のようです。
~ここに書いたことは、例えであり、方便です~